2008・05・15  愛する恩師


私は小学校の3年生の後半から合唱部に所属をしていました。

合唱部の担当の先生は女性で先生とは気が合うと感じました。
担当の先生は合唱指導にかけては日本一の名指導者でした。
当時、朝練習と夕方に練習があり朝7時50分に集合して練習につぐ練習です。
授業が終わってからも夜遅くまで練習です。
練習が終わった後に食べる飴は最高に美味しかったと記憶しています。

そのかいあって私達の合唱部は日本一を獲得することができたのです。
その後の合唱部の活躍は目覚しく全国の学校から注目を集めることになります。

その先生の指導は東京でも有名になり、作曲家の「湯山昭」さんが学校にきて指導をしてくれ、さらに湯山先生が書き下ろした楽曲も歌うことになり仙台でレコーディングするこになったのです。名前を忘れてしまいましたが、他のLPもレコーディングしたことがあります。

いつも合唱コンクールの遠征でいろんな県外に出かけては歌い数々の賞を受賞していました。この合唱部でなぜ日本一なれたかというと先生の指導の仕方と皆のチームワークの良さでした。

飽きやすい性格の私はマンネリが嫌いで息抜きにたまに遊びに出かけてはサボったりしていました。先生は遊びにいってる場所さえもお見通しで先輩を遣して私を迎えに来させるのでした。なんで私の居場所が分かったのか不思議です。

私が帰ってくると先生は怒ることをしません。ただ優しく私を迎え入れて合唱に参加させてくれるのです。そうすると私は皆が一生懸命練習してるのになんだか申し訳なくて、ただ泣くしかなかったですね。(^^;)やられましたね!

合唱部の仲間は本当に仲がよく、いじめなんて考えられないメンバーでいつも先輩後輩も笑い合い本当に楽しかった生活でした。

絶対「日本一を成し遂げる!」という目標があり、皆の意識があがれば日本一にもなれるということを先生は教えてくれました。

「チームワーク・笑顔・行動」このすべてが一致したときミラクルを起こせるのです!そうして私達は日本一という輝かしい学校生活を送ることができたのです。

学校の制度で10年間勤務した先生は他の学校へ転勤しないといけなかったのです。転勤が決まったときに学校全体が先生が離れていくのを誰もが引きとめたのでした。転勤するときに本当に残念で悲しかったです。
合唱部の後任の先生はあんまり実力なさそうだしだれもが不安を抱えたあの日。

たまに転勤先の小学校を見学に行ったりして先生の様子やその学校の合唱部の偵察したりで興味シンシン♪^^
日本一の指導力を持った先生はその年の秋には県大会で優勝するほど合唱部をひきあげていたのでした。転勤先の学校で2年連続日本一を受賞するなど全国にその名を轟かせた恐るべき先生♪あなたは本当に凄い人でした。

学校も卒業して社会人となった私はある日、訃報を聞くことになる。
母が私に「●●先生が亡くなったそうだよ、お葬式に行く?」と聞いてきました。
本来ならばお葬式に参列しなければならないのですが、私は参加することを拒んだのです。今思えば先生の死を認めたくないという思いからだったと思います。

そんなことも忘れていたある日、仕事をしていると懐かしい合唱部の先生を思い出しました。あれ?先生の気配がすると思ったら、KOKOちゃん懐かしいわね。
お元気ですか?もし実家に帰ることがあったらどうかお墓参りにきてください。
楽しみにしています。とメッセージをいただきました。

ネットでいろいろ検索してみると転勤してからの先生は素晴らしい功績をのこしていました。私は人生の中でこんな素敵な素晴らしい先生と出会ったのは大変光栄なことだと思い、今でも尊敬しています。

楽しく音楽を覚えさせ、可愛がってくれた先生。写真撮影の時は必ず私のそばにいて助けれくれた先生。この先生は私のグループソウルで魂の先生だったのではないかと思います。

早速実家の母に電話をして先生のお墓を探してもらうことにしました。
夏に帰ったら先生との思い出の歌をうたいます。
素晴らしい音霊(おとだま)と共に心をこめて歌わせていただきます。
せめてものご供養になればと思います。

今こうして書いている私はじわーと涙がでます。でも実際の私が泣いているのではなくて先生がそばにいて感激して泣いているのです。先生は大変喜びその波動が伝わるのです。夏に帰るのが楽しみです♪

残念ながらそのレコードは自宅の火災ですべて焼失してしまったのでないのですが、調べてみると5枚からのお申し込みで作ってくれることが出来るということを発見しました。

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